日本では、「引っ越しそば」が広く知られているため、初めて「引っ越しうどん」という言葉を耳にすると「そばではなく、どうしてうどん?」と驚く方が多いかもしれません。ところが、香川県の一部地域には、新築や改築など、お風呂にまつわるタイミングで“浴槽につかりながら”うどんを味わうという、なんともユニークな風習があるのです。
さらに驚きなのは、そのうどんを食べる場所が「浴室」だという点。お風呂の中でうどんをすするなんて、普段の生活ではまず考えにくいですよね。どうして香川県西部では、そのような慣習が生まれ、どのような経緯で続いてきたのでしょうか。この習わしを詳しくたどりながら、「引っ越しうどん」の魅力や背景を解説していきます。
この記事でわかること
- 香川県西部に残る「引っ越しうどん」とは何か
- お風呂でうどんを食べるようになった理由
- 「中風(ちゅうふう)」予防と長寿を願う想い
- 昔は当たり前だったお風呂の貴重さ
- この風習が今も行われているのかどうか
1. 香川県西部発祥の「引っ越しうどん」とは?
まずは、この風習のざっくりとした内容を見ていきましょう。
- 新築や増改築時に行われる
- 新居を構えた際、あるいはお風呂の修理が終わったときなど、浴室の“お祝い”をする場面で行われる習慣です。
- 年長者から湯船に入る
- お祝いの席では、家族の中で最も年上の人から順番に浴槽へ入り、のぼせない程度につかりながらうどんをすすります。
- 食べるのは基本的に温かいうどん
- 冷たいうどんではなく、湯気が立つほど温かいものを選ぶのがポイント。これには理由がありますが、それは後ほどご紹介します。
- 家族以外の人も招待する場合がある
- 家主だけでなく、近所の方や親しい人を招いて一緒に楽しむこともあるようです。かつては「もらい湯」という文化があり、お風呂を近隣で共有する風習もありました。
実際には地域や家庭によって細かな違いがあるようですが、共通しているのは「新しいお風呂+うどん」という組み合わせ。そして「めでたい機会にうどんで祝う」という考え方は、まさに“うどん県”とも称される香川県の文化を感じさせます。
2. お風呂でうどんを食べる理由とは?
(1)中風(ちゅうふう)予防の願掛け
なぜ入浴中にうどんを食べるのか。一説には「中風を防ぐ」という願いがこめられているといわれています。中風というのは、脳の血管障害によって起こるマヒや後遺症のことを指し、昔は脳梗塞や脳出血などの総称として使われていました。
- 食後の入浴は負担がかかる?
一般的に、食べ物を胃腸で消化するときは血流がそちらに集中します。そのタイミングで入浴をすると、急激な血圧の変動が起こりやすいため、脳や心臓への負担が高まります。 - 浴槽につかりながら食べればOK?
そこで「ならば入浴中に食べれば、タイミングを重ねることなく安全なのでは」という考え方が生まれたのかもしれません。医学的根拠は薄いとの見解もありますが、人々の長寿を願う気持ちが垣間見えます。
(2)「太く長く生きる」という縁起かつぎ
うどんはそばに比べて麺が太く、長く伸ばすことができるため、「人生を長く太く」という願いを表すことも多いようです。特に香川県では生活に根付いた主食といえるほど日常的に食べられているため、お祝いごと=うどんの登場はごく自然な流れだったのでしょう。
3. お風呂が貴重だった時代の名残
今でこそ、家の中にお風呂があり、好きなときに湯船を楽しめるのが当たり前。しかし、ひと昔前まではそれが当たり前ではありませんでした。
- 銭湯やもらい湯が中心だった
昭和中期まで、毎日お湯を張れるほどの経済的余裕がある家は限られていました。近所の人同士で「今日はうちで風呂を焚いたから、入りに来て」と声をかけ合う「もらい湯」という風習が存在したほどです。 - 浴槽を新調するのは一大イベント
そんな時代に、家を新築したり、お風呂を修理したりすることは滅多にない大仕事でした。完成したお風呂をお披露目する意味でも、周囲の人たちを呼んで祝う風潮が自然に生まれたのでしょう。 - 香川県はうどん文化が根強い
香川県が“うどん県”と呼ばれるのは、小麦栽培や塩づくり、醤油づくりに適した環境がそろっていたから。特に「人を招いて祝う」という場面ではうどんがふるまわれることが多く、そうした背景もあって「お風呂+うどん」の風習が受け入れられたようです。
4. なぜ香川県に限定されるのか?
“引っ越しうどん”という呼び名と風習は、主に香川県西部を中心に伝えられています。他県では、同じように「新居でそばやうどんを食べる習慣」は散見されるものの、わざわざ浴槽で味わうというところまで徹底している事例はほとんどありません。
香川県の特徴
- 小麦の栽培に適した気候
晴れの日が多く、降水量が少ないため、小麦の生産に向いています。 - 塩作りが盛んな海岸部
瀬戸内海沿岸では伝統的に塩田があり、うどんづくりに必要な塩が入手しやすい土壌でした。 - 醤油の産地がある
小豆島などで古くから醤油が作られ、麺つゆに欠かせない醤油文化も発展。
こうして「うどんを作る材料に恵まれているうえ、お祝いごとにはうどんが欠かせない」ところが、引っ越しの際にもそばではなく“うどん”を選んだ理由のひとつといえるでしょう。
5. 現在の「引っ越しうどん」はどうなっている?
長い歴史を持つこの風習ですが、現代では浴室を披露する場も少なくなり、大掛かりにご近所を招いて一緒にお風呂に入るということは、ほとんど見かけなくなりました。では、実際にはどのような形で残っているのでしょうか?
- 若い世代にはあまり浸透していない
そもそも、風呂場でうどんを食べること自体、衛生面や安全面での懸念もあり、今では実践しづらい面があるようです。 - “知っている”けれど“やらない”人が多数
香川県に住む方の中でも、「そういう慣習が昔あった」という認識はあるものの、実際に自分たちがやるかといえば「やらない」という声が多いとのこと。 - お祝いの席では今も現役のうどん
一方、結婚式や新年など、めでたい行事での振る舞いとしてうどんを食べるのは引き続き盛ん。何か特別なことがあるときには欠かせない定番の料理といえます。
6.「引っ越しうどん」を体験してみたい方へ
もし香川県で新築や増改築の予定があるなら、この昔ながらの風習を試してみるのも一興です。絶対にこうしなければいけない、という決まりはありませんが、次のポイントを押さえるとより趣を感じられるかもしれません。
- 温かい麺を用意する
風味がよく、湯気の立つうどんはお祝いムードも高めてくれます。 - 湯船には無理なく入る
浴槽で長時間食べ続けるのは大変なので、体調を考慮しながら短めに。 - ちょっとした小皿やお椀を活用する
汁気が多いまま持ち込むとこぼれてしまうので、小分けにして食べると安心です。 - 近所の人を巻き込むと盛り上がる
実際に一緒に浴槽に入るかはおいておき、「うちの新風呂を見ていってください」程度の軽いお誘いでも、雰囲気が楽しめます。
まとめ:時代とともに変わる風習
引っ越しのたびにそばを食べる「引っ越しそば」は、全国的にまだ残っていますが、「引っ越しうどん」は特定の地域でのみ見られ、そのスタイルも独特です。特に“お風呂の中で食べる”という要素は、古くはお風呂が貴重だった時代の名残や、中風予防と長寿を願う信仰が入り混じったものでした。
しかし、ライフスタイルの変化によって、ご近所どうしでお風呂をシェアする「もらい湯」もほとんど消滅。お風呂の新築を皆で祝う風習も、少しずつ姿を消しつつあります。それでも「めでたいときにうどんを食べる」という文化は、香川県の人々の中に根強く残り、結婚式や年始の行事では今も愛され続けています。
もし香川県で新たにお風呂を設ける機会があるなら、昔ながらの「引っ越しうどん」を少しアレンジして楽しんでみるのはいかがでしょうか。今では珍しい風習だからこそ、みんなで笑顔になれる貴重な思い出になるかもしれませんよ。